自由丁店長とオーナー、そして、一年後の自分へ
○はじめに
自由丁FM「応えたくない期待」との付き合い方(2020年11月4日配信)、「頼り、頼られる」というコミュニケーション(同年11月5日配信)を拝聴し、例のごとく、自分ごとに置き換えながら、色々考えているうちに、いつのまにかそれなりの文を書き留めてしまい、ラジオのコメントやレターでは載せきれなくなったため、TOMOSHIBI POSTに送ることにしました。ラジオを聴きながら考えたことをそのまま書き連ねています。
○自分が頼られる場合に起こること
誰かに何かを頼まれたら、30代は断るなと信頼する大先輩から言われ、そうしてきました。そのおかげか、断りたくても断るための良い伝え方がわからないこともあり、それを考えていても時間がもったいないので、すぐにやる方向で考えるようになりました。断ることで、相手に嫌な気持ちをさせたくないとか、自分に声をかけてくれたんだからと、積極的な方向で考えるようにしています。
どんな心持ちにしろ、やると決めたら、最大限自分のためになるよう、その機会を好機と捉え、ここで得られる経験に価値を見出そうとします。ただ、中には駒として利用されるのが明らかな場合(立場や利害関係などから外堀が埋められていたり、僕がやらないと他に厄介ごとが回ってしまう)や、引き受けたんなら当然これもやってよねって場合(事前の話と違う)があり、これらも一応やりますが、それはやりたくない頼まれです。大抵、そういう扱いをした人や受けたところとは距離を取るようになります。
よくよく考えてみると、僕自身のことをよく理解してくれて、考えてくれている人からの一緒にやりましょうという依頼には、全く嫌な思いをしてこなかったなぁと。いくら大変でも、僕にしかできないことで応えようと思って取り組みました。その人と関わっていられることに、とても居心地の良さを感じていたからかもしれません。また、とりあえず断らずに何でもやってきたことによって、自分自身のできた、できなかったの力量把握にはなったと思っています。実際、過去の取り組みが今になって、同じような仕事をして欲しいって依頼になって返ってくることもあり、過去の自分が残したものが、今の自分に働きかけてくることもあります。頼まれることには短期的な見返りだけでなく、時間差でやってくるものもあると実感しています。
○自分が人に頼ることで悩ましい部分
人に頼りたいと思う時、真っ先に考えてしまうのが、その人の人生の貴重な時間を奪うこと、そしてその対価(お金、メリット等)をどうするかです。十分に見合うと納得できる場合は、簡単に依頼できます。大抵、その場合は自分自身のメリットよりも、相手方にメリットが多く、しかも断られても全く問題ない時です。
ただ、一番悩ましいのが、自分ごと(主に個人として取り組んでいる研究)で人に頼る時で、その相手が友人であるときです。僕としては頼る前にかかる時間のこと、対価をどうするかとか考えますが、友人の場合、受け取ろうともせず、やってくれてしまうからです。普通に仕事で頼んだら、結構な作業でもです。また、対価ですと払っても、それを僕との食事で使うなどします。その無償の愛に、何も返せない不甲斐なさを感じ、頼ることを躊躇させます。でも、僕は僕でよっぽど追い込まれた時、もうどうにもこうにもならんとなって、頼ってしまうのですが、そんな時ほど感謝と恩義を感じることはなく、そのお返しがお金でしか考えられない自分に不甲斐なさを感じます。なので、自分が何かで頼られた時のために、全力で返せるよう力をつけようとやり過ごしています。
ラジオを聞いていて、頼られた時の捉え方は千差万別なんだと、そうか、この僕の考えも一つの捉え方だよなと思えるようになったのはありがたかったです。また、頼るって自分が思っていることはかなり狭い範囲で、色んなところで頼ってるじゃないかと再認識しました。日々当たり前を支えてくれている方々にも頼ってるじゃないかと。頼るのが苦手と思っていましたが、ちゃっかり頼ってるやつでした。
○仲間、友人という存在
ピカソなどが生まれた洗濯船や手塚治虫のトキワ荘のように、そこに自然と芸術家や漫画家が集まる場所があって、そこから個々人が活躍していったわけですが、そこにはプロジェクトが先立ってあったわけでなく、どちらかと言えば、世間一般に息苦しさを感じたよくわからない人たちが集まっていた場所なんじゃないかと思います。
個人的には、大学院もそうでした。研究対象はバラバラでも、個人的に大事だと思う問題意識を持つ仲間が一緒の場にいること。それはある意味、社会のルールとは別の、そこで流通しているルールに身を置くことができることでもあったように思います。世間の雑音のボリュームを少し絞れて、自分の探求したいことに向き合える環境になっていたなと。社会人であればこうあるべきという同調圧力から逃れることができ、色んな考えの人(変わり者含め)と交れたことは財産です(もちろん、そこにも社会性はあるわけなので、誰もが好き勝手やれるわけではありませんが)。
ただ、そういう場は、残念ながら卒業することが前提になっているように思います(居座ることはできなくはないですが)。僕自身、ここで得られた友人や仲間は一生ものです。
社会に出てから、狭義の意味の頼りたいと思う人には、まずもって彼らの顔が浮かびます。けれども、卒業して、年を重ね、それぞれ家族を持ち、生き方が様々になっていく過程で、頼る上で考える変数が多くなってしまい、結果頼めないということもあります。大事な人ほど、その人がその人生で探求したい問題や愛する家族との時間を僕の時間で奪ってしまうと考えてしまいます。前は飯奢るよくらいだったのが、案件ベースで時間にしてこれくらいだといくらと算盤を叩くと、なんだかその関係性を壊そうとしているように感じ、結果、頼むのを躊躇させます。でも、繋がっていたい大事な存在を遠ざけてしまう部分もあるので、それは頼るという感覚を変えていく、利用するということではなく、繋がっているためと改めようと思っています。
○おわりに
ラジオを聞いて、やっぱり一緒に何かをしたいと思える仲間の存在は凄く大事だなと思いました。繋がりを持ち続けるための頼り癖をつけます。自分が大事に思う関係なら、きっと難しい場合は素直に断ってくれる。逆に、そういう間柄であることを確認できるようにも思いました。気兼ねなく頼めて、気兼ねなく断ってくれて、でもタイミングが合えば、一緒に楽しいことやろうよと。ずっと、頼むのは人の時間を奪うことだと思っていたのですが、たしかにそういう側面はあるものの、一緒にいたい人とつながっている状態、コミュニケーションの仕方なんだと思えるようになりました。性格上、すぐには切り替えきれないと思いますが、これから頼む練習をしていきたいと思います。
おさかなさん